数学に背理法があるように芸術にもそれはある。自由をすべて他人にゆだね感情のすべてを自分のうちに閉じ込めてみよう。そうすれば、自由であること、感情が外に開かれていることの素晴らしさがわかるだろう。偉大な芸術は、かくも残酷な実験を自分にではなく、他人に課す魔力をもっている。作家カズオ・イシグロの有名な小説『日の名残り』もまさにそんな作品のひとつだ。この小説は、『日から残ったもの』という題名でモンソダルから翻訳が出た。カズオ・イシグロは、2017年にノーベル文学賞を受賞している。
オスカー男優賞3度受賞という記録保持者ダニエル・デイ=ルイスは、かつてつぎのように語ったことがある。「あらゆる芸術においてシンプルに見えるものより美しいものはない。人生で一度でも何かを創造しようと試みた人は誰であれみんなちょっと見ただけでは簡単そうに見えるもののもつ微妙な凡庸さを創造することがいかに難しいか知っている」と。
小説『日の名残り』は、ちょうどそんな一見簡単そうに見える、老人の思いをつづった作品だ。ダーリントンの館の執事の職に一生を捧げたスティーブンスが、過ぎ去りし人生を自分の視点から一人称で語る体裁をとっているが、何の変哲もない語りをつうじて、わたしたちが自分に与えられた自由や感情を自分自身の手によって閉じこめているという現実を、想像できうる極限において表現している。それがこの小説のきわだった魅力だ。ごく普通のしかも極限であるところの・・・何かから解放されたいという欲望にとりつかれてしまいそうになる。
この作品の主人公スティーブンスは、若いころ父の仕事を継いである館の執事になる。そして、老いてから数日間の旅に出て過ぎ去りし日々を回想する。作品は、価値、誇り、尊厳、誠実さ、責任について考えさせる。文章と表現は、格式ばって、細部にこだわり、英国紳士の文化がしみ込んでいる。そして、自虐的な日本文学の精神さえ連想させる。カズオ・イシグロは、日本生まれだが、5歳の時家族でイギリスに移住しそこで成人した作家だ。
スティーブンスの回想には、ふたりの人物が登場する。ダーリントン卿とミス・ケントンである。ダーリントン卿は館の主であり、ミス・ケントンは一緒に働いていた館のマネージャーといった人物だ。ミス・ケントンのことは、作品の最初から最後まで、このふたりのあいだに愛の言葉もそれととれる関係も出てこない。しかしながら、スティーブンスがミス・ケントンを愛していたこと、今も愛していることは伝わってくる。甘い言葉もあからさまな表現もなにひとつ書かれていないのにそんなロマンティックなニュアンスを感じさせるとは、「君が好き」というかわりに「月がなんてきれいなんでしょう」とオブラートに包まれた物言いをする、まさに東洋の文化に生まれた作家の魔術と言えるだろう。
ミス・ケントンの方もスティーブンスを愛しているが、もっと分かりやすい強い表現を好む自由な性格に描かれている。スティーブンスは、仕事を口実に壁を作りそれを盾にしたまま、夫人はほかの男と結婚しダーリントンの館を去ってしまうことになる。ミス・ケントンは、彼からの一言を期待し、一度でも心を開いて私生活に立ち入らせてくれることを、いったい何年の間待ちつづけたことだろうか。きっと読者は、スティーブンスに腹を立て、もし作品の中に自分の手をつっこむことができたなら、彼の背中を押して彼女を抱きしめさせてやりたい、何とか言ってやったらと叫びたくなるに違いない。そんな高く硬い壁の向こうに閉じこもった彼は、ダーリントンの館にただひとり取り残されてしまうのだ。
しかし、彼女が去ったのちも彼らは文通を続ける。ミス・ケントンはある時ダーリントンの館に戻りたいともとれる内容を手紙に書く。それがスティーブンスの心に期待を芽生えさせる。彼女を連れ帰る望みを抱いて彼は旅に出るのだが、結局それがかなうことはない。作品の最後にミス・ケントンは、つぎのように語る。
「これまでの人生をふりかえってなんてひどい失敗をしてしまったのかしらと思う日ももちろんあります。別の人生、例えばあなたといっしょになっていたらと思うことも。でもわたしのいるべき場所は夫のとなりなのです。時間は巻き戻せません。ですから、いつまでもこうなっていたかも知れないってくよくよ考えるのは間違いです。」
この時になってはじめて、作者はスティーブンスに自分の感情を表現する言葉を語らせる。「隠さずに言いましょう。まさにその瞬間わたしの心は引き裂かれるようでした。」
ミス・ケントンといっしょに、スティーブンスの若いころから老人になるまで、彼の一言を待っていた読者の心もその瞬間引き裂かれる。あまりにも手遅れだ。彼女を受け入れるのも、愛するのも、愛の言葉を言うのも、抱きしめるのも、いっしょに人生を歩むのも。あまりにも手遅れであまりにも痛々しいこの結末で、作者はいったい何を言いたかったのであろうか。スティーブンスが守る厳格な原則、主人に対する忠節、職業倫理のかげで、彼自身の私生活や愛といった一番価値あるものが、犠牲にされていたのである。わたしたちも日々そんなあやまちを積み重ねている。この小説がそれを極限の状態にして拡大して見せてくれたからこそ、後悔もできるのだ。
この小説の最後に感情を吐露するたった一言を嵌めこんだカズオ・イシグロを、ノーベル委員会は、「感情に強く訴える力を持った数々の小説において、わたしたちが他者と、世界とつながっているという我々の幻想に隠された深淵を露わにした」と評している。
理性や道理、合理性の傾向が支配してきた西洋哲学において、感情はかなり後になって自分の場をえたといってよい。わたしの好きな哲学者の話をしよう。感情や自由と言えば、サルトルの思想を引用しないといけない。
サルトルは、意識や能力など人間のもつあらゆる形式以前に、生身の、苦悩を背負った人間としての存在つまり実存があるということを認めた西欧の仏陀である。それゆえ、彼の哲学は実存主義と呼ばれる。実存するとはどういうことだろうか?生身の、苦悩を背負った人間の世界と他者とかかわる関係に終点というものはない。永久に流転し、永久に変化しつづけるこの関係において、人間の感情の様相にも最終的な様相はない。これをサルトルは虚無と呼んだ。虚無の存在であるならば、自分自身が何者であるかを決定するのは、どう行動するかであり、つまりわたしたちの自由であるところのわたしたちの選択である。このように、わたしたち人間は自由であることで呪われているのだ。苦悩とともにある自らの自由をどう使い、自分自身をどう規定していくかで、自分自身を“authentic”であるか“inauthentic”であるか自分で決定するのである。つまり自分で責任を負うのだ。もともと、それぞれの単語は「本当の」、「偽の」という意味であるが、モンゴルでは「本当の」という語がその意味を失っているので、翻訳しないでそのまま使う。Authenticityとは、簡単に言うと、自分がどんな環境にどんな苦悩を味わい存在しているか完全に自覚し自身の自由に責任をもって対せるということである。言い換えて、実存主義者の視点からスティーブンスを見ると、彼は本当の存在ではない。自分の人生と感情を完全に受け入れ、自由を責任をもって行使できなかった老いた執事は、人生の最後にこう嘆息することになる。「自分の過ちさえも自分のものだと言えないとは。そんなわたしにどんな尊厳があるというのでしょう?」
もともと、主人公の回想は、自分に尊厳があるという強い自負ではじまる。父が亡くなろうとしていた時でさえ、そばにいず仕事を優先させることができた、わたしは本当のプロフェッショナルなのだ。そんな誇りに疑問がわいてくるのだ。自分の全人生はあやまちだったのではないか。これは、トルストイからドストエフスキー、太宰、カフカに至る大作家たちが、死とまだ直面したことのないわれわれ読者に、教訓として投げかける問いのひとつだ。
ともあれ、身体と精神を分けて論じる傾向のあった哲学の伝統に生の肉体を導入したのは、フッサール、メルロ=ポンティ、サルトルら現象学の哲学者たちである。ここでは紙面の関係上詳しく述べないが、身体というのは寺院であり人生の核である。人間の身体の存在は真実であり、人間の身体に触れることができることも真実である。身体が身体を(互いにという意味でなくボディつまり肉体という意味で)生身のまま抱き合い、愛し、触れ合うことができるのは、生きて存在することの証だ。それに対し、目の前にある生の肉体に触れるどころか話す自由もちゃんと行使しなかったスティーブンスの人生は、寺院の外、塀の前で終わってしまうのである。
では、いったい何のために、どうして?この問いから、主人公が自分の政治的自由をどう行使したかが問題として浮かんでくる。ダーリントンの館の主ダーリントン卿に、主人公はすべての思想、決定、信頼を捧げ、自分自身が決定することなく生きてきた。ところが、ダーリントン卿は、ヨーロッパの政治史の暗黒であるナチスドイツのために働いていたことで、のちに社会から非難され名誉を失うことになった。ここでも作者は極限の状態を設定して表現してみせる。自分の頭脳をすべて他人に託してしまったのちに、託した人間はナチスとして去ってゆく。人生の終わりになって振り返って見れば、頼りとする支点の選択を間違えてしまったようなものだ。ここでまた哲学の概念のひとつを紹介したい。それは、alienated soul つまり「疎外された精神」である。どんな現象も、キーとなる概念なしに、思考の中に位置づけることはできない。この語は、隔離された魂あるいは意識と訳すことができよう。ヘーゲルが名付けた概念であり、なるべく分かりやすく言えば、人間は、自分の内に探し求めた本質を、自分の外の彼方に存在する神や宗教といったものに仮託し、その彼方にある正しいものと自身の本質との間に矛盾を抱えて生きる不幸な存在だということである。サルトルの実存主義における実存とは、この矛盾をできるだけ小さくするように自由を行使することである。
主人に対して掛値なしに100%忠実であること、自分自身の寺院を投げうってでも死に物狂いで努めること、自分の思想や自由をみずから否定し奴隷の地位に甘んずること。カズオ・イシグロは、このようなことを真実憎むリベラルな作家として、反証法によってそれを表現しようと奴隷のように忠実な執事を描いたのである。この小説は、仕事や政治で誰か他人の下で働き、すべての価値あるものや思想を支配されて生きる同世代の若者たちに是非読んでもらいたいと思う。
ローリントン卿であれ、政治であれ、宗教であろうと違いはない。スティーブンスのように忠実な奴隷の人生をこのようにこのように描くことで彼をああ可哀そうと思うかもしれないが、21世紀の自由な市民であるわれわれも、日常のおおくの選択おおくの決断を、自分の頭ではなく、慣れ親しんだ権力にゆだね生活しているのではないだろうか。知恵ある人間の運命を尊重せず、与えられた自由を完全に行使し責任を引き受ける勇気もない。カズオ・イシグロ自身が語ったように、「われわれはみなある意味執事なのだ」。
以上、わたしの中にまたあなたの中にいる執事を憐れむとともに忌み嫌うわけ、執事の状態から自由になって真実の存在、実存とならなければ、つまり自由を責任もって行使できなければ、主人と奴隷の社会とそこから発生するあまたの問題からいつになっても逃れることはできないのだということをくどくど述べてきた。
さて、小説の結末はどうなったのであろうか。今はベン夫人となったミス・ケントンを見送ったスティーブンスは、そこに残りしばしひとびとを観察する。そうして、わざとらしく冗談を言いあうこともひとびとのあいだの温かい関係を構築する方法なのだと考え、旅からもどったら新しい主人にもジョークを言い、ユーモアのセンスをもって奉仕しようと決心する。笑いまでも主人に奉仕するのに使おうとする、スティーブンスは、壁の外に出ることなどできそうにない。
かわいそうなスティーブンス、かわいそうなあなたたち。

p.s. 本稿は、trends.mnにて掲載されたモンゴル語の原文から上村明が和文に訳したものである。